あなたの記憶が保存される前に
最初の被験者は、自分の娘の死を忘れた。
もちろん、完全にではない。
名前も覚えていたし、写真を見れば誰なのかもわかった。
だが、その記憶に伴っていた感情だけが消えていた。
娘の写真を眺めながら、彼はこう言った。
「不思議だ。大切だったとは思う。でも、もう悲しくない」
その動画を見たとき、私は強い嫌悪感を覚えた。
それは医学ではなく、冒涜に見えたからだ。
だが一年後、私はその研究所で働いていた。
人生とは、そういうものだ。
研究所はコロラド州の山間部にあった。
正式名称は、感情記憶保存研究センター。
だが内部では、もっと単純な呼び方をしていた。
「アーカイブ」
人間の記憶を保存する施設。
ただし、脳の情報としてではない。
感情として保存する。
怒り。
後悔。
幸福。
愛情。
そうしたものを脳から分離し、別媒体へ保存する技術だった。
最初はPTSD患者の治療として開発された。
だがすぐに別用途が見つかった。
人は、忘れたい記憶より、失いたくない感情のほうを恐れている。
私の仕事は、保存技術の調整だった。
患者の脳波を解析し、感情構造をマッピングする。
三十六歳。
神経工学博士。
離婚歴あり。
ありがちな経歴だった。
私の元夫は、研究に人生を捧げる人間が嫌いだった。
私は、研究を理解しない人間が苦手だった。
それだけの話だ。
研究所では、毎週のように被験者が訪れた。
戦争帰還兵。
事故の生存者。
子どもを亡くした親。
彼らは苦痛を除去しに来る。
だが、感情は単独では存在しない。
愛情から悲しみだけを切り離すことは難しい。
恐怖だけを消せば、慎重さまで失われる。
怒りを除去すれば、自尊心まで弱まる。
人間の人格は、感情の癒着でできている。
それを私は毎日見ていた。
ある日、一人の老人が研究所を訪れた。
名前はハロルド・ベイン。
七十二歳。
元教師。
彼は穏やかな男だった。
面談室へ入ると、静かに言った。
「妻を保存したいんです」
私は一瞬、意味がわからなかった。
「記憶を、ですか?」
「感情を」
彼は訂正した。
「忘れたくないんです」
それは珍しい依頼ではなかった。
人は忘却を恐れる。
特に愛する人については。
「奥様は亡くなられた?」
「ええ。去年」
彼は微笑んだ。
「私は最近、彼女の声を思い出せなくなってきた」
窓の外では雪が降っていた。
コロラドの冬は静かだ。
老人は続ける。
「写真はあります。でも、写真は感情を保存してくれない」
私は黙っていた。
「だから保存したいんです。彼女を愛していた感覚を」
その依頼は倫理委員会で議論になった。
感情保存技術は、本来は除去のためのものだったからだ。
だが最終的に許可された。
理由は単純だった。
企業スポンサーが興味を示したからだ。
愛情の保存。
市場価値は大きい。
施術は二週間後に行われた。
私はモニター室で脳波を監視していた。
老人は椅子に座り、ヘッドギアを装着している。
「準備はいいですか?」
彼は頷いた。
「妻の名前を言ってください」
「エレン」
脳波が変化する。
感情活動領域が発光するように広がった。
愛情記憶は、脳内で非常に複雑な構造を持つ。
匂い。
声。
触感。
時間。
沈黙。
それらが巨大な網目として繋がっている。
私はその波形を見ながら、不意に奇妙な感覚を覚えた。
彼は、妻を記憶しているのではない。
妻との関係性そのものを保持しているのだ。
愛情とは情報ではなく、持続する変化なのかもしれない。
施術は成功した。
保存媒体には、エレンという女性への感情構造が記録された。
世界初の「愛情保存」だった。
ニュースにもなった。
研究所は称賛された。
だが問題は、その三日後に起きた。
ハロルド・ベインが、妻についてほとんど語れなくなったのだ。
「愛していましたか?」
私は聞いた。
老人は困った顔をした。
「たぶん」
「たぶん?」
「記録したあとから、感覚が曖昧なんです」
彼は写真を見た。
「この女性は、私にとって大事な人だった」
それは理解している。
だが感情が薄い。
まるで、他人の思い出を読んでいるみたいに。
私は背筋が冷たくなった。
保存したのではない。
移動したのだ。
感情を。
その夜、私は研究所に残った。
誰もいない保存室で、記録媒体を見つめていた。
透明な結晶体。
内部には、微細な光が流れている。
そこに、一人の人間の愛情が存在している。
私は突然、恐ろしくなった。
もし感情が保存可能なら。
人格とは何なのか。
感情を抜き取った人間は、同じ人間なのか。
翌週、スポンサー企業が新しい計画を持ち込んだ。
「共有」を行いたいという。
保存した感情を、他人が体験できるようにする。
恋愛教育。
共感訓練。
心理治療。
用途はいくらでもあった。
私は反対した。
だが研究は進んだ。
数か月後、最初の共有実験が行われた。
被験者は若い女性だった。
彼女は結晶体へ接続される。
そして数秒後、涙を流した。
「どう感じますか?」
研究員が尋ねる。
女性は震える声で言った。
「誰かを、すごく長い間愛していた感じがします」
「誰を?」
「わからない」
彼女は涙を拭った。
「でも、失いたくないと思う」
その瞬間、私は理解した。
感情は、記憶より先に人を変える。
誰かを愛した経験は、対象を失っても人格へ残る。
だから共有された愛情は、他人の内部でも成長する。
それは感染に近かった。
研究所は熱狂した。
「人類は感情を継承できる」
スポンサーはそう宣言した。
戦争を経験した兵士の恐怖。
偉大な芸術家の情熱。
理想的な親の愛情。
すべて共有できる。
だが私は違和感を覚えていた。
感情は、文脈から切り離された瞬間に危険になる。
理由のない怒り。
対象のない愛情。
出所不明の後悔。
それは幽霊のように人へ宿る。
ある夜、私は研究所の共有室へ入った。
誰もいなかった。
私はハロルドの保存媒体を見た。
エレンへの愛情。
私は規則違反だと理解していた。
だが、どうしても知りたかった。
愛情が保存されるとは、どういうことなのか。
私は接続装置を頭につけた。
結晶体が淡く光る。
次の瞬間。
私は、見知らぬキッチンに立っていた。
もちろん実際ではない。
感情的再構築だ。
窓から朝日が差している。
コーヒーの匂い。
新聞をめくる音。
誰かが笑っている。
顔は見えない。
だが、その人が大切だと理解できる。
何十年も一緒に朝を過ごした感覚。
皺の増え方を知っている感覚。
沈黙が安心になる感覚。
私は息ができなくなった。
これは情報ではない。
時間そのものだ。
愛情とは、積み重なった日常の形なのだ。
接続を切ったとき、私は泣いていた。
そして、ひどく混乱していた。
私はエレンを知らない。
だが少しだけ、彼女を失った気持ちになっている。
数週間後、研究所で事故が起きた。
大量の保存媒体が同期暴走したのだ。
共有ネットワークへ接続していた研究員たちは、他人の感情を同時に受信した。
悲鳴。
号泣。
笑い。
愛情。
恐怖。
数百人分の人生が一気に流れ込む。
私は床に倒れた。
知らない母親を失った悲しみ。
知らない海を愛した記憶。
知らない子どもを抱きしめた幸福。
感情が人格の境界を溶かしていく。
数秒だった。
だが永遠みたいに長かった。
事故後、研究所は閉鎖された。
政府は技術を凍結した。
危険すぎるという理由だった。
私は研究所を辞めた。
今は海辺の小さな町に住んでいる。
大学では教えていない。
論文も書いていない。
夕方になると海を歩く。
波の音を聞きながら、時々思い出す。
あの日、研究所で流れ込んできた感情を。
知らない誰かの愛情。
知らない誰かの孤独。
そして気づく。
人間は、記憶によってできているのではない。
誰かへ向けた感情の痕跡によって、形作られている。
だから愛情は、保存してはいけなかったのだ。
それは所有物ではなく、変化だから。
移植された瞬間、別の人間の人生を始めてしまう。
去年、私は郵便を受け取った。
差出人は、ハロルド・ベインだった。
彼は二年前に亡くなっていた。
封筒の中には、小さな記録媒体が入っていた。
そして短いメモ。
『もしあなたがまだ覚えているなら、これはあなたに預けます』
私は長い間、その媒体を机に置いたままにしている。
接続すれば、おそらくエレンへの愛情が再生される。
だが私はまだ見ていない。
理由は簡単だ。
もしそれを体験したら。
私は二度と、知らない誰かを他人だと思えなくなる気がするからだ。